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清浄道論 Visuddhimagga 1-1
因縁などについての論
(Nidānādi-kathā)



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清浄道論 Visuddhimagga 1-1
因縁などについての論 1/2


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[1] 時に、この清浄への道の場合、実に[自覚して自己の内外の現象は無常・苦・無我・不浄であると繰り返し随観する] 観(vipassanā)のみによりて説き示すのである。[そして]曰く、- 「一切の諸行は無常である」と智慧によりて観察する時、 又、苦しみを嫌う。これが清浄への道である」と。
※Dhp-U.p19、註①参考。

[2]ある場合には、禅定と智慧[の意味]とによりて[説き示す]。

そして曰く、-「[智慧の無い人には禅定は無い。禅定がない人には智慧はない]。 禅定と智慧を有する彼は、実に涅槃[の境地]に近ずいている」と。
※ Dhp-U、p407、「第372詩句」参考。

[3]ある場合には、[輪廻からの解脱に向かって自ら精進・努力する]行為[の意味]などによりて[説き示す]。

そして曰く、-「[輪廻を打ち砕ていく自らの自発的な]行為(=業)と、[観の修習による]悟りの智慧(=明, vijjā)と、 [仏陀によって説かれた]法(dhamma)と、[正しい身業・語業の]戒め(sīla)と、 [戒めにより自ら制御されるべき調順されるべき]最高の[出家]生活(=活命, jīvita)と、 これらによりて、死ぬべき人間(maccā)の[心]は清まるのである。血統や家系(=姓)によりて[心が清まることはない]、 あるいは財産によりて[心が清まることは]ない」と。

[4]ある場合には、[正しい身・語による行為の]戒め[の意味]などによりて[説き示す]。

そして曰く、-「常に戒めを具足して、智慧があり、[禅定に]善く入定して、精進を起こして熱心に努力する人は、 [欲暴流・有暴流・見暴流・無明暴流という]渡り難き[四つの]暴流(ogha)を渡る」と。
(※ 暴流:Dhp-U.p33、註⑤参考)

[5] ある場合には、[八正道の正念(sammā-sati)に該当する身(kāya)・感受(vedanā)・心(citta)・法(dhamma)の四つの]念住 [の意味]などによりて[説き示す]。

そして曰く、-「比丘たちよ、これは、諸々の有情(=人間)の[心の]清浄のため… ・中略…・涅槃を明らかに観るという一つの目的に導く行道である。即ち、これが四念住(cattāro satipaṭṭhānā)である。

実に、[①既に生じた悪を捨断するための精進、
②未だ生じていない悪が生じないための精進、
③未だ生じたことがない善が生じるための精進、
④既に生じた善が増大するための精進
という四つの] 正勤(Sammappadhāna)などについても又同じである。

しかしながら、この[天界に住む神々の一人の神の子(=天子)の]質問に対する[仏陀の]解答においては、 戒めなど[の意味]から、[先ずは]説き示すのである。
(※ Dhp-U.p102、「三十七菩提分法」―《四正勤》参考)

この点について簡略に解釈すれば、[次の如くである]。

-「戒めの足場を[しっかり固めること]によりて」(sīle patiṭṭhāyā)とは、戒めを確立して[という意味である]。

[正しい身体の行為・正しい言葉の行為による]戒めを完全に成就している者は、この場合、戒めが定着している者と言える。 それ故に、戒めを完全に成就させることを、「戒めの足場を[しっかり固めること]と、これが、この言葉の意味である。

「人」(Naro)とは、有情(satta)のことである。

「智慧の有する者」(Sapañño)とは、[過去世において、自ら進んで積極的に善行や修行を積み重ねた結果、 89心の中の欲界の八つの有因異熟心の智相応心(42)(43)(46)(47)の中の随一なものによって、 死後、善趣地に結生した無貪因・無瞋因・無痴因を有する人の]業生三因結生の智慧(kammaja-tihetuka-paṭisandhi-pañña)によりて 智慧を有する[三因]者である。
(※ Dhp-U.p5-4、 [人種類12種](4)三因者 参考)

「心と智慧とを修習して」(Cittaṁ paññaṁ ca bhāvayan)とは、 禅定(=止, samādhi)[の修習]と観(vipassana)の修習[の意味]である。

[即ち、この止・観の修習は、止が観を助け、観なしでは解脱はあり得ないと説く。 止の修習だけでは無色界の非想非非想処までしか得られず、悟ることはできない。 何故ならば、正しい真理を観る智慧が無いからである。

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