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清浄道論 Visuddhimagga 1-1
因縁などについての論
(Nidānādi-kathā)



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清浄道論 Visuddhimagga 1-1
因縁などについての論 1/2
(Nidānādi-kathā)


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即ち、過去因の無明を根本因として現在果の六根➝六識➝六触➝六受の縁によって生起する 六愛(色愛・声愛・香愛・味愛・触愛・法愛)のことである]。
(※ 註:Dhp-U.p264~p265、註①「渇愛」参考)

例えば、実に竹藪の網などによりて竹などが[縛られる]その如く[楽受を与えるものに対する強い熱望、 あるいは苦受のものに対する激しい怒り]これらの渇愛による結縛によりて一切有情に属すると称せられる 人間たち(pajā)は、[渇愛に]縛られ、[渇愛と]結ばれ、[渇愛に]絡まれるという意味である。

又、その如くに縛られている故に、「ゴータマよ、これについて私は汝に質問するのである」 (Taṁ taṁ Gotama pucchāmī)と、それを[一人の神の子が]質問した。

そして「ゴータマ(Gotamā)」と、姓によりて「世尊」(Bhagavant)に話し掛けたのである。 「誰がこの[輪廻に縛り付ける]結縛(jaṭā)を粉々に破壊して[離脱することが出来るの]であろうか?」

(Ko imaṁ vijaṭaye jaṭan)とは、 その如く[過去世・現在世・未来世の]三つの世界に結び付けて存在するこの結縛を、 誰が粉々に破壊することが[出来るだろうか?]、誰が[輪廻から]解脱することが出来るだろうか?という質問である。

その如くに[天界に住む神々の一人の神の]子(=天子,)が質問したのに対して、 [その答えを]一切諸法において[貪・瞋・痴による]障害がなく、 [十六の]智行者(後記参考)にして、[神々が住む]天界において[帝]釈たちの中で最も勝れたる帝釈であり、 梵天たちの中で最も勝れた梵[天]であり、四つの無畏(後記参考)に自信のある聖者であり、十の力(後記参考)を持つ聖者であり、 [四つの]無碍[自在、後記参考]の智者であり、[無限に見える如来の眼の]一切眼の世尊(仏陀)は、 [天界に住む神々の一人の神の子(=天子,)の]彼にその意味について答えられたのである。-

[先ず、仏陀は]、戒めの足場を[しっかり固めること]によりて智慧を有する人は、 心と智慧とを修習する。[煩悩を燃やし尽くして渇愛を取り除くことに]熱心に努力する智慧を有する比丘の彼は、 この[輪廻に縛り付ける]結縛を粉々に破壊して[解脱すべき]であると、この詩偈を言ったのである。

今や大仙人(=仏陀)によりて説かれたこの詩偈によりて、 戒めなどの破壊(sīlādibhedanaṁ)の意味について如実に説き明かそうと[私は]、 [即ち]、勝者(=仏陀)の教えにおいて、極めて得難い出家を得ても、戒めなどの集まりを、 [心の]安穏を、正しい清らかな道を、如実に理解せずして清浄を望み瞑想に励んでも、 この[涅槃という]清浄[の境地]に到達することはできない。

[それ故に、私は]、 彼らに喜びをもたらす極めて清浄なる決定の「清浄なる道」について、[上座部仏教の伝統の灯明である] 大寺の住人(Mahā-vihāravāsīna)の[長老たちの伝統によって荘厳された]説示方法によりて[次のことを説くのである]。

『清浄への道』を説くについて、それを恭しく説こうとする私[の言葉]を、清浄を望む者全ては、善く耳を傾けて聞け!」と。

その中で、「清浄」(visuddhī)とは、[煩悩の]垢が無い究極の清浄[なる状態]涅槃(nibbāna)と理解すべきである。 その「清浄への道」ということで「清浄道[論]」(Visuddhimagga)である。「道」(Magga)とは、[涅槃に]到達する方法を言う。 その清浄の道について説くという意味である。

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