ホーム>清浄道論>清浄道論1-2 第1品 戒の解釈 1/14
清浄道論 Visuddhimagga 1-2
戒の解釈 1/14
(Sīla-niddessa)
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清浄道論 Visuddhimagga 1-2
戒の解釈 1/14
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【序文】
その如く、多くの集合した徳を、
戒め(sīla)・
禅定( samādhi)・
智慧(paññā)
の門によりて示されたと雖も、
しかしながら、この『清浄への道』(Visuddhimagga)
[「因縁などについての論」(nidānādi-katha)]
は、極めて簡単に説明されたにすぎない。
[簡略すぎてその内容が理解しにくい点がある]。
それ故に、[煩悩の滅尽を]完成させるための
十分な[説明]ではないと言うことで、
[輪廻からの解脱を目指す]全ての人たちの手助けとなり、
その詳細の説明するために、
[第一品~第二十三品を記述するのである。
その第一品『戒の解釈』において]、
先ず[最初]は、戒めに関する[七つの]質問の作業から始める。
[1].何が戒めであるのか?
[2].何の意味によりて[それを]戒めとするのか?
[3].何がその特徴・作用・現われ起きる・直接の原因となるのか?
[4].何が戒めの利益となるのか?
[5].この戒めには何種類があるのか? 又
[6].何がそれを汚染するのか?
[7].何が[それの]浄化となるのか?
と。
そこに、この解答がある。
-『戒めに関する七つの質問 その[1]. 何が戒めであるのか?』(Kiṁ sīlaṁ ti)
[1].「何が戒めであるのか?」(Kiṁ sīlaṁ)とは、
殺生などの[悪行から]離れようとする者にとっての、
あるいは[仏弟子としての十三の清浄なる仏道に励む(註)]
義務行(vattapaṭipatti)を果たそうとする者にとっての思(cetanā)
などに関する法である。
[思(cetanā)は、業を作る上で最も重要な作用であり、
所縁の認識主体としての心を指す]。
(※ 註:Dhp-U.p12、「13の清浄なる修行」参考。)
実にこれは、[パーリ五部の小部経の一つである]無碍解[道](Paṭisambhidāya)に[次の如く]説かれている。
―「何が戒めであるのか?」
[所縁の認識主体としての]思(=心,cetanā,註)が戒めであり、
[心の属性とも言われ、心の部分的な作用・性質・状態などを指す]心所(cetasika)が戒めであり、
[不善の身・口・意による悪行から守る]律儀(saṁvara)が戒めであり、
[戒律条項に]違犯がない(avītikkama)が戒めである」と。
(※ 註:Dhp-U.p494、(4)参考。)
その中で、「思(=心, cetanā)が戒めである」(cetanā sīlaṁ)とは、
殺生などから離れている者にとっての、
あるいは[煩悩の塵をふるい落とし、
衣食住についても貪欲を払い捨て、
十三の清浄なる仏道に励む]義務を果たそうとする者にとっての思(cetanā)である。
「心所が戒めである(Cetasikaṁ sīlaṁ)」とは、
実に殺生など[の悪行から]離れようとする者にとっての離れる(virati)[心所]である。
更に又、「思(=心)が戒めである(cetanā sīlaṁ)」とは、
実に殺生などを捨てている者にとっての七つの業道の思(sattakammapathacetanā)である。
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