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清浄道論 Visuddhimagga 1-2
戒の解釈 1/14
(Sīla-niddessa)
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清浄道論 Visuddhimagga 1-2
戒の解釈 1/14
【20~21/21ページ: 17ページから】
『戒めに関する七つの質問
その[4]. 何が戒めの利益となるのか?』(Kim ānisa ṁsaṁ sīlan)
「何が戒めの利益なのか?」(Kim ānisaṁsaṁ sīlan)」とは、
後悔などが無く、多くの徳を得るという利益である。
[仏陀は]、実にこれを説かれたのである。
-「アーナンダよ、時に、いろいろな善き戒めは、
後悔の無いことを目的として、後悔が無いことを利益とする」と。
【戒めによる五つの利益】
更に又、[仏陀は]説かれている。
「居士たちよ、[輪廻からの解脱を目指して]具足戒によりて戒めを有する者には、
これら[次の]五つの利益がある。どのような五つであるのか?
【戒めによる五つの利益 ①大きな財産を得る】
居士たちよ、ここに、戒めを具足した具戒者(sīlasampanno)は、
[戒めに対する]不放逸の結果として大きな財産の集まりを明らかに得ること[が出来る]。
これが、戒めを具足した具戒者の第一の利益である。
【戒めによる五つの利益 ②名声を得る】
更に又、居士たちよ、戒めを具足した具戒者には、[他人から]善き賞賛の声があがる。
これが、戒めを具足した具戒者の第二の利益である。
【戒めによる五つの利益 ③恐れることなく誰にでも近ずく】
更に又、居士たちよ、戒めを具足した具戒者は、
もし、どのような人々の間に近ずくとも、
[王族などの]武士階級(=刹帝利集)の間に[近ずくとも]、
バラモン階級の集団に[近ずくとも]、
金持ちたちの間に[近ずくとも]、
沙門たちの間に[近ずくとも]、
[恐れず]自信のある堂々たる[態度で]近ずくことが[出来る]。
これが、戒めを具足した具戒者の第三の利益である。
【戒めによる五つの利益 ④心の乱れなく臨終を迎える】
更に又、居士たちよ、戒めを具足した具戒者は、
[心の]迷い乱れがなく、臨終を迎えることが[出来る]。
これが、戒めを具足した具戒者の第四の利益である。
【戒めによる五つの利益 ⑤死後、善趣地の天界に生まれ変わる】
更に又、居士たちよ、戒めを具足した具戒者は、
[この世で]肉体が破壊して死んでも、
[来世には欲界]善趣[地]の天界に生まれ[変わることが出来る]。
これが、戒めを具足した具戒者の第五の利益である。
更に又、
「比丘たちよ、もし、比丘として[戒律を守って禁欲の生活を送りながら
慈・悲・喜・捨の四無量の修習によって
苦しみから解放されて
清浄なる境地の梵天が住む世界に到達する修行をする(註)]
同じ梵行者たちに愛されて喜ばれて重んじられ尊敬されることを望む彼は、
実に戒めを完成させた者などの表現によりて[他の比丘たちから]愛され喜ばれ、
[他の比丘たちの]意に入るなどから[始まり]、
[いろいろな煩悩を完全に滅尽する]漏尽(āsava註)を最後とする
数多くの戒めの利益を[得た比丘]として[周りから]言われるのである。
(※ 註:Dhp-U.p119.註⑤「漏尽者」参考)
その如く、後悔が無いなどの数多くの戒めの利益がある。
更に又、
― それがなければ、善男子たちにとって[仏陀の説かれた]教え(=仏教)における足場が無くなる。
[実に]その戒め[を受け保つことによる]利益を限定して誰かに語らせよ。
[例えば]、
ガンジス河も、
又[ガンジス河の支流の]ジャムナー河も、
あるいはサラブー河も、
サラスヴァティー河も、
あるいはアチラヴァティー(Aciravatī)なる流水も、
あるいは又、マヒー河の大きな河も、
この世に生命がある生き物たちのその垢を清めることができない。
実に戒めの水(sīlajala)こそが、
生きとし生けるものたちのその垢を浄化させることが[出来る]のである。
その水分を含む風ではなく、更に又、黄色の栴檀[の樹]でもない。
天界へ昇り行く階段における[戒めの香りに]、
あるいは又、
涅槃の城に入るべき門における戒めの香りに等しい[香り]が、
他の何処にあるのであろうか?
※「四無量」:
『清浄道論』第九品『梵住の解釈』参考。
【参考】四無量(Catasso appamañña)※ Dhp-U.p307、参考
慈(metta)
あらゆる生き物が怨みなく、
苦しみなく、
健全で幸福に暮らせるしたいと思う。
52心所の共浄心所の無瞋(33)が自性である。
無瞋は89心中の一切の善心などと相応する。
ちょうど母親が我が子に対する慈しみは
、
本来の慈ではなく、
渇愛としてのものである。
悲(karunā)
怨み心が無く、
苦しんでいる有情を所縁として、
心から同情して、
その苦しみが無くなることを思う。
52心所の二無量心所の一つ
悲(50)が自性である。
同義語に不害(avihiṁsā)。
喜(muditā)
嫉妬心が無く、
幸福な有情を所縁として喜ぶ。
52心所の無量心所の一つ喜(51)が自性である。
同義語に無嫉(anissā)。
捨(upekkhā)
苦楽の両極端を離れ、
執着心も無く、
善因善果・悪因悪果と自分の内外をあるがままに観察して
一切の有情は業を自己とすると観る。
心所の共浄心所の中捨(34)が自性である。
捨の反対は貪(lobha)。
【参考】
『ダンマパダ』第56詩句,Dhp-U.p75.
Appamatto ayaṁ gandho l yāyaṁ tagaracandanī ll
Yo ca sīlavataṁ gandho l vāti devesu uttamo. ll
これらタガラや白檀の香りは僅かである。
[しかし]戒めを具足する[不還聖者・阿羅漢聖者]の香りは、
神々の間にも広がり、最上である。
(第56詩句)
真珠・宝石で飾る王様たちと雖も、
戒めによりて荘厳に飾られた[梵]行者たちの如くに[清らかに]輝くことはない。
戒めは、自分が[他人から]非難されるなどの恐怖を一切打ち破り倒す。
そして戒めを有する者に、常に名声と笑みとが生じる。
いろいろな徳の根本的な存在であり、
又、諸々の[心の]汚れに対する強い破壊者の戒めという利益論の門
(ānisaṁsakathā-mukha)は、
このように理解されるべきである。
【20~21/21ページ: 17ページから】
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