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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 5/14
(Sīla-niddessa)



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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 5/14


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【四種類の律儀 その(2) 能力(=根)律儀戒】 (indriyasaṁvarasīlaṁ)

次に、その直後に、

「彼は、眼で色(rūpa)を観察しながら、 相を取ることなく、細かい相を取ることがない。

その経験から眼の能力(=眼根)を守ること無くして住む[比丘]は、 [煩悩を追い求める]貪欲・憂いによるいろいろな悪い法(=不善法,akusalā dhammā)に堕ちる故に、 その眼の能力(=眼根)を守るという目的に進むために彼は修行して、 眼の能力(=根)を守り、眼の能力の律儀(=防護)に至る。

耳で声を聞き、 …・中略…・・鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わい、身で触れるところに触れて、 意で法を識り、相を取ることなく、…

・中略…・・意の能力(=意根)を守るところに達すると説かれた。 これが、能力(=根)律儀戒(indriyasaṁvara-sīla)となる。 (※下線部分は、本文には無いが便宜上、前に述べられたところを再び掲載する)。

その中で、「彼」(so)とは、

戒条(別解脱)律儀戒(pātimokkha-saṁvarasīla)を得ている比丘のことである。

「眼で色を観察しながら」(Cakkhunā rūpaṁ disvā)とは、

[眼の視野に入って来た所縁という]原因によりて色(rūpa)を見る能力がある、 [あるいは]眼という既に世間一般で使われている[見る認識作用の]眼識(cakkhuviñña)でもって色を見る という[意味]である。

しかしながら、古人曰く、

-「眼に心の働きがないが故に、[眼だけでは]色を見ることは出来ない。

心に眼の働きがないために[心だけでは色を]見ることは出来ない。

しかしながら、[眼の]門と[色の]所縁とがぶつかり合うことによりて生じる清らかな眼[識] (cakkhu-viññāṇa)を基礎とした心によりて、[始めて色を]見ることができる。

そして、[眼で色を見る]は、[ちょうど]「弓でもって射る」などの如く、 必要条件を有する論(=有資糧論, sasambhārakathā)となる。

それ故に、「[眼の門と色の所縁とがぶつかり合って生じる認識主体の]眼識(cakkhu-viññāṇena,註1) で色(rūpa)を見て」と、これが、実にこの場合の意味である。
(※ 註1:Dhp-U.p196、「現在果6 触」参考)

「相を取ることなく」(Na nimittaggāhī)とは、

[外面的な特徴の]男女の相、
あるいは美しい相など[に心が奪われることなく]、
煩悩の基礎的な原因として存在する相に
[心が]奪われることなく、
ただ見ることのみを確立させるにほかならない。

「細かい相を取ることなく」(Nānubyañjanaggāhī)とは、

いろいろな煩悩に従がって
[異性などの]好みが明らかに現れる状態をもたらす故に、
付随する相という通称を既に得ている
[異性の]手・足・微笑・戯れな笑い・語りかける・顧み見るなどの類の
[異性の]姿・形に[心が]とらわれない。

その中の[毛・骨などの身分の如きの]存在のみを取ることである。

[例えば]チェティヤ山に住むマハーティッサ長老の如くである。

伝えて曰く、

―この長老が、托鉢のためにチェティヤ山からアヌラーダの都に入って来た時、
ある良家の嫁が夫と口喧嘩をした後、
[ちょうど]天女の如く、たいへん美しく着飾って、
朝早く、アヌラーダの都を出て親元の家に帰る道中、
[ティッサ長老を]見て、

[普通の精神状態ではない]

道理に合わない心で大声で笑ったのである。

長老は、

「これは何事か!」

と[彼女の姿を]眺めて、歯と骨に対する不浄の想(註)を得て、
阿羅漢果に到達したのである。

それ故に[次の如く]言われた。

-「彼女の歯の骨を見て、前の[不浄の]想を随念する。実にそこに立ったまま長老は、 阿羅漢果に到達した」と。
(※ 註:Dhp-U.p43、註②「三十二身分観想」参考)

又、[妻の]夫も、

[彼女を]追いかける道中で長老を見るや、

「尊者よ、どこかで女性を見かけませんでしたか?」

とたずねた。

長老は彼に言った。

- 「私は、女性あるいは男性が、ここを歩いていたかについて明らかに知らない。

しかしながら

骨の集まりというもの

が、この大きな道を歩いていた」と。

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