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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 5/14
(Sīla-niddessa)


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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 5/14


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その[眼の能力を守れず貪欲などの不善法の影響を受けるという]

結果などの原因の意味するところについて、

[即ち]この眼の能力(=眼根)を守れない[不律儀の]原因として、

忘れずに意識する(sati)入り口において眼の能力(=眼根)を守れず、

眼の門を閉じることなく住むこの人を、これら貪欲など[不善]法が流れ込み[心を]縛るのである。

「その[眼の能力の]守ることに向かって実践する」

(Tassa saṁvarāya paṭipajjatī)とは、その眼の能力(=眼根)を忘れずに意識する(sati) 入り口において閉じるために実践することである。

[即ち、常に四念住の不浄随観を忘れずに眼の能力を守る者は、 貪欲などの不善の法に侵されることはないということである]。

その如くに実践することによりて眼の能力(=眼根)は守られるにほかならない、 あるいは眼の能力(=眼根)の守りに至ると言われる。

そこには、例え何であれ、眼の能力[そのもの]には、 守る[律儀]も守らない[不律儀]もない。

実に[眼の瞳孔の中にある、 蚤の頭ほどの場所に無数に散在している] 眼の浄[色](cakkhupasāda-rūpa,註)に依りて

[悟りの道・果の前の段階である戒の清浄などの世間善・唯作と相応する法を] 忘れずに意識する(sati)、あるいは忘れること(muṭṭhasacca)が、生じない。
(※ 註:Dhp-U.p560、「Ⅱ.浄色」,参考)

更に又、色(rūpa)という所縁が眼の視野にやって来る範囲において、

[潜在意識の]有分(bhavaṅga)が二回生じて滅した後、

[善でもなく不善でもなく異熟でもない欲界無因]唯作意界(70) (kiriya-mano-dhātu,註)が、

[五門]引転作用を成立させながら生じては滅する。
(※ 註:Dhp-U.p487、「b.唯作心20種」参考。)

次に、[単なる認識作用の]眼識(cakkhuviññāṇa)が見る作用(dassanakicca)を行なう。

[即ち、好き・中ほどに好きな所縁に対して欲界無因第一善異熟心・捨倶善異熟眼識(34)が、 嫌いな所縁に対して欲界無因第一不善異熟心・捨倶不善異熟眼識(63)が作用する]。

次に、異熟の意界(vipākamanodhātu)が領受作用(sampaṭicchana-kicca)を[行なう]。

[即ち、異熟心によって五蘊の所縁の好き・嫌いを感受する作用である。

好き・中ほどに好きの所縁に対して欲界無因・捨倶善異熟意界(39)が、

嫌いな所縁に対して欲界無因・捨倶不善異熟意界(68)が

作用をする]。

次に、異熟無因の意識界(vipākāhetuka-mano-viññāṇa-dhātu)が推度作用(santīraṇakicca)を行なう。

[即ち、領受心で感受された所縁を異熟心によって更に好き・嫌いに考察分別する作用である。

極大の好きな所縁に対しては欲界無因・喜倶善異熟意識界(40)が、

極大の中ほどに好きな所縁に対して欲界無因・捨倶善異熟意識界(41)が、

そして極大の嫌いな所縁に対しては欲界無因・捨倶不善異熟意界(69)が推度作用をする]。

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