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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 8/14
(Sīla-niddessa)



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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 8/14


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「適当な受用」によりて、[今、苦痛の]その原因を生じさせない、又、新しい苦痛も発生させないと、その如くにこの意味 を理解すべきである。適当に[食べ物の]受用を取る、[断食など]自ら煩わしく苦しむこと(=苦行)に心を向けることを捨断 するというこの限りにおいて、法を正しく身につけて[心の]安楽を捨てないことが説かれていると理解すべきである。

又、「私に善い習慣(=在命)があるに相違ない」(Yātrā me bhavissatī)とは、制限された[食べ物の]受用によりて、 [生命の物質的な性質を有する色の]命根(jīvitindriya)を中断させる[が如くの]、あるいは身の振る舞い(iriyāpatha)を 破壊させる[が如くの]危険のない状態である。

それ故に、生活必需品を[正しく]受用して生活する私は「長い時間を歩く」 と称せられる習慣が[ある]、あるいは私によき習慣があるに相違ない。更に生活必需品を[正しく]受用する私は、[ちょうど] 病人たちが、その身体に必需品[の薬を使用するが]如く[正しく]受用する。

「非難されるべき点がない(=無罪)、あるいは[心]穏やかに住む(=安楽住)」(Anavajjatā ca phāsuvihāro cā)とは、 不適当に遍く求める・手に入れる・受け入れて用いることを回避することを非難されるべき点がない(=無罪)と言い、適度の 制限がある受用によりて[心]穏やかに住む(=安楽住)と言う。あるいは、不適当に制限の無い食べ物[を摂る]縁によりて、 不満・眠気・あくび・有識者からの叱責などの過失が無いことを、非難されるべき点がない(=無罪)と言う。

適当に制限がある食事の縁によりて身体に力が生じることを、[心]穏やかに住む(=安楽住)と言う。あるいは、与えられて 満腹になるまでの食事を回避することによりて、横になる楽しみ・臥せる楽しみ・寝る楽しみを捨断することを、非難され るべき点がないこと(=無罪)という。 ]

[そして、少欲をもって足るを知るの如く]、四口・五口だけの少々不足ぎみの食事 によりて、[歩く・住む・坐る・臥せるの]四つの振る舞い(=威儀)の適当な状態において修行をするということが、[心] 穏やかに住む(=安楽住)である。[非難されるべき点がないと心穏やかに住むの二つが]私にあるべきである」と[いうことを 忘れずに、信者からの施しの食べ物を]受用する。

即ち、次の如くに説かれたのである。- 「四口・五口の食事をして、[その後は]皆に黙って水を飲み、[少欲をもって足る を知るべきである]。[それに]満足して[修行に]精進する比丘は、[心]穏やかに住む(=安楽住)である。」と。

又、 [善き習慣(=在命)があるに相違ない・非難されるべき点がない(=無罪)・[心]穏かに住むという言葉の]範囲において、 [輪廻からの解脱という]目的のために遍く受け取ることを[明らかに説かれたのである]、更に[その目的を実現化する ために八正道という]中道(majjhimā-paṭipadā)を明らかに説かれたと理解すべきである。

【参考】八正道:※ Dhp-U.p104、「道の真理の義釈」
1. 正見(sammā-diṭṭhi):正しい見解・信仰。
2. 正思惟(sammā-sankappa):正しい意志・決意。
3. 正語(sammā-vācā):正しい言語。
4. 正業(sammā-kammanta):正しい行為。
5. 正命(sammā-ājīva):正しい生活。
6. 正精進(sammā-vāyāma):正しい努力・勇気。
7. 正念(sammā-sati):正しい意識・注意。
8. 正定(sammā-samādhi):正しい精神統一。

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★清浄道論 Visuddhimagga 1-3戒の解釈 8/14(Sīla-niddessa) 終わり★





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