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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 10/14
(Sīla-niddessa) 
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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 10/14
        
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[兄の]長老は言った。「私は[身体の病気を治す医者のように]薬草(=根薬)などを取り集めて薬を煎じる[方法]を知らない。しかしながら、
お前に[心の病を治す]薬を教える。
―「私は出家をして以来、貪欲の心によって[見る]能力(=根)を破壊しながら女性(=異性)の姿・
形(=色)を見たことがない。この真実の言葉によりて私の母親が安楽であれ。 行け!このことを説いて[その]女性信者の身体を治す
ように」と。
[早速]彼女は、[母親の元に]行き、この[言葉の]意味を告げて、その如くに為したのである。その瞬間、女性信者の腫れ物は、[ちょうど]
泡の集まりの如くに、解けて消え去ったのである。元気を取り戻した[母親]は、「もし、[今ここに]正自覚者(=仏陀,Sammāsambuddha)
がおられたならば、私の子供の如き比丘の頭を[三十二相の一つの]網の模様で飾られた手で、どのように触れられるのか!」と喜びの言葉を
発したのである。
それ故に、- 今や他の善男子も[仏陀の]教えに入門して、[ちょうど]ミッタ長老の如く、最上の能力(=根)律儀[戒]を
安定させて続けるべきである。
【四つの遍浄戒についての雑論 その[3] [出家]生活(=活命)遍浄戒の成就】
次に、能力(=根)律儀[戒]を忘れず意識すること(=念)によりて[完成する]、その如くに[出家]生活(=活命)の遍浄[戒]は、精進によりて
実に成就されるべきである。
実にその精進の実践にして、善く精進に努力する者には、邪な生活の捨断が出来る。
それ故に、精進によりて邪な求めを捨てて、托鉢などに
よる正しい求めによりて、この[出家生活(=活命)遍浄戒]は完成させなければならない。遍く清浄の生じている[出家生活の]必需品の受用
によりて、[ちょうど]毒蛇を[避ける]が如く、
この生活(=活命)において、遍く清浄ではないものを[常に]避けなければならない。その中で、[煩悩のゴミを振るい落とし、衣食住につい
ても貪欲を払い捨て、輪廻からの解脱を目指して、清浄に仏道に励む十三]頭陀支(dhutaṅga、後記参考)を実践しない[修行]者の場合、
[四名以上の集まりの]サンガ(saṅgha)の[集まっている場所に信者たちがやって来て施しをする生活必需品を、遍く清浄にして生じると
言う]、あるいは[二・三名の集まりの]別衆(gaṇa)が[集まっている場所に信者たちがやって来て施しをする生活必需品を、遍く清浄に
して生じると言う]、あるいは、[彼の]説法などの徳(guṇa)によりて清らかに信仰する在家[の信者たち]の目前で生じる[施しによる]生活
必需品を遍く清浄にして生じると言う。
そして托鉢をするなどによりて[信者から施される出家生活の必需品は]、「極めて遍く清浄にして生じる」(atiparisuddhuppādā)にほか
ならない。
次に、[十三の清浄なる]頭陀支をしっかり理解して実践する[比丘]の場合、托鉢などによりて[信者から施された生活必需品を遍く清浄に
して生じると言う]、又、あるいは[彼の]頭陀行による自制に従がった[徳を]清らかに信じた在家[信者]の目前で生じる[施しによる]生活
必需品を遍く清浄にして生じると言う。
ある病を静めるために薬となる実(pūtihariṭakī)があり、又、[油・蜂蜜・砂糖・ギーの]四つの
甘い[薬]が[信者の施しによって]手に入った時、「四つの甘い[薬]は、ほかの同じ梵行者たちも又受用するであろう」と考えて[自分は
これを受用せず]、薬となる腐った実の一部のみを受用する者は、頭陀支に相応しいものである。実にこの〔比丘〕は、最上の聖なる要因
[を有する(=最上聖種)]比丘たちであると言われる。
次に、[十三の頭陀支を実践しながら出家]生活を遍く清めている比丘に、法衣などについても、食べ物についても、示相・暗示・遠回しの
話を[信者に]表わし示すことは正しいことではない。
しかしながら、[十三の]頭陀支を実践していない[比丘]が、臥坐所について示相・暗示・遠回しの話を[信者に]表わし示すことは可能である。
その中で、「示相」(nimitta)とは、臥坐所のために土地の準備などをしている[比丘]が、在家信者から「尊師よ、何を為されている
のか? 誰が為されているのか?」と問われて、「誰も何もしていない」と返答する、あるいは、他のこれに準じた[返事を]する。
これは、[他のことを言って自分の心を相手に知らせる]示相の行為である。
「暗示」(Obhāsa)とは、[比丘が]、「男性信者よ、汝はどこに住んでいるのか?」と[たずねると]、「尊師よ、高台です」と[信者が
答えた]。「男性信者よ、しかしながら比丘たちには、高台は[住む所として]適していない」と言う、あるいは、他のこれに準じた[言葉
を言う]、これは、暗示の行為である。
「遠回しの話」(Parikathā)とは、「[四名以上の多くの比丘が集まる]比丘サンガの臥坐所は狭い
所である」と言う、あるいは、他に準じた[言葉を言う]、これは、遠回しの話である。
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