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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 10/14
(Sīla-niddessa)



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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 10/14


【64/64ページ: 61ページから】

[托鉢から帰って来た]長老は、[サーリプッタ長老の所に]やって来て、「友サーリプッタよ、さあ~、食べるのだ」と[乳粥を]差し出した。 それを見て[サーリプッタ]長老も、「極めて喜ばしい[結構な]粥である。一体どのようにして得られたのか?」と思い、その得られた原因を 知って[次のことを]言った。

「友モッガラーナよ、持ち去ってくれ。[これは、私が]受用するに値しない食べ物である」と。又、かの尊者[ モッガラーナ長老]も、「実に私如きの者が持って来た食べ物など[彼は]食べない」と[いうような]心を生じさせず、[サーリプッタ長老の] 一言によりて実に鉢の縁を取って片方に倒したのである。 [乳]粥が地面に落ちると共に[サーリプッタ]長老の病気は消え去った。それから 以後、四十五年間、再び[同じ病いが]起こらなかった。

これより[サーリプッタ長老が]マハーモッガラーナ[長老]に曰く、-「友よ、言葉による表現によりて得られた[乳]粥は、[例え]お腹の[痛み に苦しむ中]、托鉢に出掛けて大地を歩くと雖も、 [施しを受ける]道理に適応するものではない」と、この自説を語るのである。

「もし、 言葉の表現によりて作られた十分に満たされた蜂蜜の粥を食べるならば、私の[出家生活における律儀戒は]非難されるべきものである。 例えば、私がお腹の[苦痛の中で]外に托鉢をすると雖も、[例え]命を捨てても、実に[出家]生活における[戒め]を破ってはならない。

私は、 自分の心を熱心に励まして[煩悩を追い求める]邪な法(anesana)を避けている。私は、仏陀が非難されている邪な法を為すことはない」と。

長い間、ジャングルに住みマンゴーを食べていたマハーティッサ長老の物語も又、ここに語られるべきである。 その如く、あらゆる方法においても、― 「邪な欲求の心さえも生じさせず、信仰によりて出家して、[仏陀の真理の教えに従がい実践する] 智慧の眼を有する者は、[煩悩を追い求める]邪な欲求の心さえも生じさせず、[出家]生活を清めるべきである」と。

【参考】『十三頭陀行』(※:Dhp-U.p12、「十三の清浄なる修行」。)
①糞掃衣を身につける、②三衣だけを身につける、③常に乞食だけで生活する、④家の貧富を差別選択せず順々に乞食する、⑤一座にて食する、 ⑥二杯目を断るため一つの鉢だけで食事をする、⑦一度断った後、食事を取らない、⑧人里離れた所で瞑想をする、⑨樹の下で瞑想する、 ⑩空地で瞑想する、⑪死体捨て場や火葬場で瞑想する、⑫最初に与えられた所で瞑想をする、⑬常に坐して横臥しないで瞑想する。 
• 『清浄道論』第二品『頭陀支の解釈』参考。 【64/64ページ: 61ページから】

★清浄道論 Visuddhimagga 1-3戒の解釈 10/14(Sīla-niddessa) 終わり★





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