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清浄道論 Visuddhimagga 1-2
戒の解釈 2/14
(Sīla-niddessa)


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清浄道論 Visuddhimagga 1-2
戒の解釈 2/14


【25/26ページ: 22ページから】

制限の無い[戒め]の解答においても、又[次の如く]説かれている。

この[無制限の]戒めにして利得に制限されていない戒めとは、一体どういうものなのか?

ここに、ある者は、利得の原因によりて、利得の条件(=縁) によりて、 利得の働きによりて、受け保つところの戒条(=学処)に違反したいという心も生じさせない。

彼は何を違犯するというのか? 

- これが、利得に制限されない戒めである

。 この方法によりて実に他のものも詳しく知るべきである。

その如く、制限のある[戒め]・制限の無い[戒め]によりて二種類となる。

【第七の二法、①世間戒・②出世間戒】

第七の二法において、一切の有情の[煩悩のある]有漏の戒めは世間[戒](lokiya-sīla)であり、 [煩悩の無い]無漏の[戒め]は、出世間[戒](lokuttara-sīla)である。

その中で、世間[の戒め]は、[欲界・色界・無色界において]特に勝れた生存(=有)をもたらし、 又、[煩悩の世界における]生存(bhava)から離れ出て[輪廻からの解脱に導く]助け(sambhāra)でもある。

[そして次の]如く曰く、

―「[出家修行者の集団生活上の規則である]律(vinaya)は、 [身・口による悪行を抑制する善なる]律儀(saṁvara)のためにある、 律儀は、後で悔やむことがない(avippaṭisāra)のためにある。

後で悔やむことがないは、満足(pāmojja)のためにある。

満足は、喜び(pīti)のためにある。

喜びは、[心と身体の不安を砕き、 静まり安らかな]軽安(passaddha,註1)のためにある、 [心と身体が静まり安らかな]軽安は、[心が浮つき騒ぐ・後悔・不安を滅し去り、 所縁を楽しむ]楽(sukha)のためにある、楽は、禅定(samādhi)のためにある。
(※ 註1軽安:Dhp-U.p505、(35)(36)参考)

禅定は、

[過去の原因より現在の結果がある・

現在の結果より現在の原因がある・

現在の原因より未来の結果ある・

此れがなければ彼はない・

此れが滅するが故に彼は滅するという「縁起の道理」によりて

名色(nāmarūpa)をあるがままにしっかり観察して、

過去・現在・未来における自分の存在に関する疑問を超える] 如実智見(yathābhūta-ñāṇadassana)のためにある。

如実知見は、

[無常・苦・無我・不浄である自己の身体と心や世間的な幸福などに対して、 以前のような喜びや充実感あるいは願望がなくなり、 不快感や倦怠感が生じる]厭離(nibbidā)のためにある。

厭離は、 [この身体と心を厭い続ける中で、

諸行から逃れたい、

世間から逃れたいと思う]離貪(virāga)のためにある、

離欲は、

[我の固執から脱する・

我と世界とは永遠であると想念することから脱する・

名色は身体と心を楽しませると想念することから脱するなどの]解脱(vimutti)のためにある、 解脱は、

[煩悩から離れた涅槃を所縁とする清浄なる]

解脱智見(vimutti-ñāṇadassana)のためにある、

解脱智見は、

[苦悩の原因を滅して涅槃の悟りの状態に到達し、

輪廻の世界に縛り付ける渇愛・高慢・邪見などの結縛を捨断する]

無取著涅槃(anupādā parinibbāna)のためにある。 【25/26ページ: 22ページから】





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