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清浄道論 Visuddhimagga 1-2
戒の解釈 2/14
(Sīla-niddessa)
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清浄道論 Visuddhimagga 1-2
戒の解釈 2/14
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制限の無い[戒め]の解答においても、又[次の如く]説かれている。
この[無制限の]戒めにして利得に制限されていない戒めとは、一体どういうものなのか?
ここに、ある者は、利得の原因によりて、利得の条件(=縁) によりて、
利得の働きによりて、受け保つところの戒条(=学処)に違反したいという心も生じさせない。
彼は何を違犯するというのか?
- これが、利得に制限されない戒めである
。
この方法によりて実に他のものも詳しく知るべきである。
その如く、制限のある[戒め]・制限の無い[戒め]によりて二種類となる。
【第七の二法、①世間戒・②出世間戒】
第七の二法において、一切の有情の[煩悩のある]有漏の戒めは世間[戒](lokiya-sīla)であり、
[煩悩の無い]無漏の[戒め]は、出世間[戒](lokuttara-sīla)である。
その中で、世間[の戒め]は、[欲界・色界・無色界において]特に勝れた生存(=有)をもたらし、
又、[煩悩の世界における]生存(bhava)から離れ出て[輪廻からの解脱に導く]助け(sambhāra)でもある。
[そして次の]如く曰く、
―「[出家修行者の集団生活上の規則である]律(vinaya)は、
[身・口による悪行を抑制する善なる]律儀(saṁvara)のためにある、
律儀は、後で悔やむことがない(avippaṭisāra)のためにある。
後で悔やむことがないは、満足(pāmojja)のためにある。
満足は、喜び(pīti)のためにある。
喜びは、[心と身体の不安を砕き、
静まり安らかな]軽安(passaddha,註1)のためにある、
[心と身体が静まり安らかな]軽安は、[心が浮つき騒ぐ・後悔・不安を滅し去り、
所縁を楽しむ]楽(sukha)のためにある、楽は、禅定(samādhi)のためにある。
(※ 註1軽安:Dhp-U.p505、(35)(36)参考)
禅定は、
[過去の原因より現在の結果がある・
現在の結果より現在の原因がある・
現在の原因より未来の結果ある・
此れがなければ彼はない・
此れが滅するが故に彼は滅するという「縁起の道理」によりて
名色(nāmarūpa)をあるがままにしっかり観察して、
過去・現在・未来における自分の存在に関する疑問を超える]
如実智見(yathābhūta-ñāṇadassana)のためにある。
如実知見は、
[無常・苦・無我・不浄である自己の身体と心や世間的な幸福などに対して、
以前のような喜びや充実感あるいは願望がなくなり、
不快感や倦怠感が生じる]厭離(nibbidā)のためにある。
厭離は、
[この身体と心を厭い続ける中で、
諸行から逃れたい、
世間から逃れたいと思う]離貪(virāga)のためにある、
離欲は、
[我の固執から脱する・
我と世界とは永遠であると想念することから脱する・
名色は身体と心を楽しませると想念することから脱するなどの]解脱(vimutti)のためにある、
解脱は、
[煩悩から離れた涅槃を所縁とする清浄なる]
解脱智見(vimutti-ñāṇadassana)のためにある、
解脱智見は、
[苦悩の原因を滅して涅槃の悟りの状態に到達し、
輪廻の世界に縛り付ける渇愛・高慢・邪見などの結縛を捨断する]
無取著涅槃(anupādā parinibbāna)のためにある。
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