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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 4/14
(Sīla-niddessa)
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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 4/14
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ここに、
ある[比丘]が、[サンガが所有する]竹を[信者に]与え、
あるいは葉を与え、
あるいは華・果実・洗剤・楊枝を与えて、
あるいは「へつらい」(cāṭukamyatāya)、
あるいは「出まかせ」を語り、
あるいはお世辞を言って喜ばせる、
あるいは使い走りをする、
あるいは仏陀に非難されている[比丘としての]
不当な[二十一の]生活の仕方(※後記参考)の何れかの随一なもので営む。
これを[正しくない修行の]不正行(anācāra)と言う。
次に、[正しい修行の]正行(ācāra)とは、一体どのようなものか?
身体による戒めの違反がない、
言葉による戒めの違反がない、
身体と言葉による戒めの違反がない、
これを正行(ācāra)と言う。
一切の戒律儀は、正行である。
[即ち]ここに、
ある[比丘]は、[サンガが所有する]竹を[信者の機嫌を取るために]与えない、
あるいは葉を与えない、
あるいは花・果実・洗剤・楊枝を与えない、
あるいは「へつらうこと」がない、
あるいは出まかせを言わない、
あるいはお世辞を言わない、
あるいは使い走りをしない、
あるいは仏陀が非難している[比丘としての]不当な[二十一の]生活の仕方の何れかの随一なもので営むことがない、
これを[正しい修行の]正行(ācāra)と言う。
「行く処」(Gocaro)とは、
[日課の托鉢などに]出掛ける処という意味と、
[托鉢などに]出掛ける処に非ずという[二つの]意味
がある。
その中で、行く処に非ず(agocaro)とは、一体どういうところであるのか?
ここに、
ある者が、遊女の処に行く、
あるいは未亡人・年配の処女・去勢された男性(=黄門)・比丘尼・飲み屋の処に行く。
あるいは国王たち、大臣たちと交流・接触をする。
[輪廻からの解脱を目指す仏道修行と]合い入れない外道の者たち(註)・外道の弟子たち
・在家の人たちとの交流・接触をしながら住む。
(※ 註:Dhp-U.p16・p17、「六師外道」参考)
あるいは又、それらの在家の者たちが、
比丘・比丘尼・男性信者・女性信者に対して、信仰[心]がなく、
信仰による楽しみがなく、
給水の泉を[自由に施すことが無く]、
口汚く罵り、悪口を言い、
[輪廻からの解脱という]目的を望まず、
[煩悩を追い求めるという]不利益を望み、
[心の]不安を望み、
一切の煩悩から離れて解放された涅槃の境地を望まない。
その如くの在家の者たちに親しく近ずき、
訪問しては[機嫌を取り]大切にする。
これを「行く処に非ず」(=非行処,agocara)と言う。
その中で、「行く処(=行処)」(gocara)とは、一体どういうところであるのか?
ここに、
ある[比丘]は、遊女の処に行かず、
…・中略…・
あるいは飲み屋の処に行かず、
あるいは国王たち
、…・中略…・
[輪廻からの解脱を目指す仏道修行に]合い入れない外道の弟子たち・在家の者たちとの交流も接触もない、
あるいは又、それらの在家信者たちが、比丘たち
…・中略…
・女性の在家信者(upāsāka)たちに対して信仰[心]があり、
信仰による楽しみがあり、
給水の泉を[自由に施し]、
袈裟衣を光輝かせて、
風に逆らって[在家信者の家々に出入りする]聖者(isi)に対して[輪廻からの解脱という]目的を望み、
…・中略…・
一切の煩悩から離れて解放された涅槃の境地を望む。
その如くの在家[信者]たちに親しく近ずき、訪問しては大切にする。
これを「行く処」(=行処,gocara)と言う。
このように、この[身体と言葉による善い行為の]正行と、
この「行く処」とを兼ね備え、
近ずき、
到達した、
具足した、
完成して兼ね備えている。
それ故に、「正行と行処とを具足する」(ācāragocarasampanno)と言う。
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