ホーム>清浄道論>清浄道論1-3 第1品 戒の解釈 4/14
清浄道論 Visuddhimagga 1-3
	戒の解釈 4/14
	(Sīla-niddessa) 
	
清浄道論_目次(全体_各章)
            ※↑は、全体目次(この章から離れます)
章内の目次は、↓の灰色のボタン「目次〇ー〇」(例:目次1-1)
清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 4/14
        
	【33/36ページ: 32ページから】
	ここに、
	ある[比丘]が、[サンガが所有する]竹を[信者に]与え、
	あるいは葉を与え、
	あるいは華・果実・洗剤・楊枝を与えて、
	あるいは「へつらい」(cāṭukamyatāya)、
	あるいは「出まかせ」を語り、
	あるいはお世辞を言って喜ばせる、
	あるいは使い走りをする、
	あるいは仏陀に非難されている[比丘としての]
	不当な[二十一の]生活の仕方(※後記参考)の何れかの随一なもので営む。
	
	これを[正しくない修行の]不正行(anācāra)と言う。
	次に、[正しい修行の]正行(ācāra)とは、一体どのようなものか?
	
	身体による戒めの違反がない、
	言葉による戒めの違反がない、
	身体と言葉による戒めの違反がない、
	
	これを正行(ācāra)と言う。
	
	一切の戒律儀は、正行である。
	
	[即ち]ここに、
	ある[比丘]は、[サンガが所有する]竹を[信者の機嫌を取るために]与えない、
	あるいは葉を与えない、
	あるいは花・果実・洗剤・楊枝を与えない、
	あるいは「へつらうこと」がない、
	あるいは出まかせを言わない、
	あるいはお世辞を言わない、
	あるいは使い走りをしない、
	あるいは仏陀が非難している[比丘としての]不当な[二十一の]生活の仕方の何れかの随一なもので営むことがない、
	
	これを[正しい修行の]正行(ācāra)と言う。
	「行く処」(Gocaro)とは、
	[日課の托鉢などに]出掛ける処という意味と、
	[托鉢などに]出掛ける処に非ずという[二つの]意味
	
	がある。
	
	その中で、行く処に非ず(agocaro)とは、一体どういうところであるのか?
	
	ここに、
	
	ある者が、遊女の処に行く、
	あるいは未亡人・年配の処女・去勢された男性(=黄門)・比丘尼・飲み屋の処に行く。
	あるいは国王たち、大臣たちと交流・接触をする。
	[輪廻からの解脱を目指す仏道修行と]合い入れない外道の者たち(註)・外道の弟子たち
	・在家の人たちとの交流・接触をしながら住む。
	(※ 註:Dhp-U.p16・p17、「六師外道」参考)
	あるいは又、それらの在家の者たちが、
	比丘・比丘尼・男性信者・女性信者に対して、信仰[心]がなく、
	信仰による楽しみがなく、
	給水の泉を[自由に施すことが無く]、
	口汚く罵り、悪口を言い、
	[輪廻からの解脱という]目的を望まず、
	[煩悩を追い求めるという]不利益を望み、
	[心の]不安を望み、
	一切の煩悩から離れて解放された涅槃の境地を望まない。
	その如くの在家の者たちに親しく近ずき、
	訪問しては[機嫌を取り]大切にする。
	
	これを「行く処に非ず」(=非行処,agocara)と言う。
その中で、「行く処(=行処)」(gocara)とは、一体どういうところであるのか?
ここに、
ある[比丘]は、遊女の処に行かず、
…・中略…・
あるいは飲み屋の処に行かず、
あるいは国王たち
、…・中略…・ 
[輪廻からの解脱を目指す仏道修行に]合い入れない外道の弟子たち・在家の者たちとの交流も接触もない、
あるいは又、それらの在家信者たちが、比丘たち
…・中略…
・女性の在家信者(upāsāka)たちに対して信仰[心]があり、
信仰による楽しみがあり、
給水の泉を[自由に施し]、
袈裟衣を光輝かせて、
風に逆らって[在家信者の家々に出入りする]聖者(isi)に対して[輪廻からの解脱という]目的を望み、
…・中略…・
一切の煩悩から離れて解放された涅槃の境地を望む。
その如くの在家[信者]たちに親しく近ずき、訪問しては大切にする。
これを「行く処」(=行処,gocara)と言う。
このように、この[身体と言葉による善い行為の]正行と、
この「行く処」とを兼ね備え、
近ずき、
到達した、
具足した、
完成して兼ね備えている。
それ故に、「正行と行処とを具足する」(ācāragocarasampanno)と言う。
	【33/36ページ: 32ページから】
※このページは【清浄道論】です(関連ページも含む)。
            以下のボタンで、他ページに移動できます。
 ダンマパダこころの清流を求めて
	ダンマパダこころの清流を求めて