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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 6/14
(Sīla-niddessa)


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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 6/14


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その中で、「嘘をついて人を迷わせる」(nippesikatā)とは、 [一体どういうものか]? 

[自己の内外の現象は無常・苦・無我であることを

随観することもなく、

輪廻からの解脱を目指すこともなく、

反対に煩悩を追い求めて世俗的な]利得、尊敬、名声に執着して、

悪い欲望があり、

貪欲に堕ちて[悪知恵が働く比丘が]、

他の人々に対して、

口汚くののしる・
人を軽く見る・
誹る・
陰口を言うこと、

これを「嘘をついて人を迷わせる」

と言われる。

その中で、利得によりて[更に]利得を貪り求める(lābhena lābhaṁ nijigiṁsanatā)とは、 一体どういうものか?

  [輪廻からの解脱を目指すこともなく、

反対に煩悩を追い求めて世俗的な]利得、尊敬、名声に執着して、

悪い欲望があり、貪欲に堕ちて[悪知恵が働く]比丘が、

そこで得た財物を別の場所に持ち去る、

あるいは別の場所で得た財物をこの場所に持って来る。

同様に、

[この]財物を元にして[更に別の]財物を探求する・
求める・
遍く求める・
探し求める・
追求する・
欲求する、

これを、利得によりて[更に]利得を貪り求めると[言われる]。

次に、このパーリ語仏典の[説明の]意味は、 次の如くであると理解すべきである。

-先ず、「故意に人を騙すこと」(kuhanā)の解釈において

「利得、尊敬、名声に執着して」(lābha-sakkāra-siloka-sannissitassā)とは、

利得と尊敬と名声とに執着して[それらを]欲求するという意味である。

「悪い欲望がある」(Pāpicchassā)とは、 [自ら]有りもしない徳(guṇa)を輝かしたいと望むことである。

「貪欲に堕ちて」(Icchāpakatassā)とは、 渇愛から離れていない、悩まされているという意味である。

これより、

①[出家修行者の]生活必需品(=資具)の受用、
②謎かけ、
③身体の振る舞い(=威儀)
を[演技で]装うことに依存して(=威儀依止)の三種類の 「故意に人を騙す基本」について、[パーリ小部経の註釈書の]「大義釈」 (Mahā-Niddesa)において説かれている。

それ故に、この三種の[故意に人を騙す基本]を示すために、

あるいは生活必需品(=資具)の受用称せられるものなどと、

その如きの[説明をここに]始めるのである。

その中で、法衣などを[施したい在家信者たちに]招待された[比丘が]、

それら[法衣など]を欲求すると雖も、

悪い欲望に執着して[一度はこの施しを]拒む[演技をする]。

[その演技のために]俗人のままで仏門に入っている在家信者(=居士)たちは、

自分たちよりしっかり信仰を持っている[小欲な] 比丘が[ここにいることを]知り、

再び[在家信者の]彼らは、

「あ~、尊師よ、あなたは欲の少ない高貴な[比丘]である。

実に[施しを]受けることを求めない。

もし、例え、僅かでも[施し]を受け取ってくれるならば、

実に[布施をする]私たちに善き功徳が得られるであろう」

と[思い、在家信者たちは]いろいろな方法によりて上等な法衣などを持ち運んで来て[施すのである]。

[悪知慧の働くこの比丘は]、

その[施された]生活必需品さえも受けることを明らかに望んでいない演技をしながらも受け取るのである。

あるいは、それから後、[多くの施し物を]車に積んで、 [自分のところに]持って来て差し出すように仕向ける。

これが、生活必需品(=資具)の受用と称して[信者を]欺く「故意に人を騙す基本的なこと」 (kuhanavatthī)」であると理解すべきである。

実にこの[パーリ小部経の註釈書の]「大義釈」(Mahā-Niddesa)に説かれているのである。

「[出家修行者の]生活必需品(=資具)の受用と称せられる、

故意に人を騙す基本的なことについてとは、

[具体的に]どのようなものであるのか?

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