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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 11/14
(Sīla-niddessa) 
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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 11/14
        
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【受用時における四つの決定論 ④主人受用】
 [有学の聖者たちには次生の結生心(paṭisandhi-citta)が生じる。それに対して死心(cuti-citta)の直後に
 次生の結生心が生じない輪廻から解脱する(註)]阿羅漢果聖者(=漏尽者)たちの受用は、実に主人受用(sāmi-
 paribhoga)と言う。
即ち、彼ら[阿羅漢果聖者たち]は、渇愛による奴隷の境遇を過去のものとしたが故に、
 [如何なる煩悩にも束縛されず自由となり、輪廻から解脱した]主人となりて受用するのである。
(※ 註:
 Dhp-U.558、「有学・無学聖者の臨終時の心作用」参考) 
これら[①盗み取る受用・②借金としての受用・③受け継ぐ受用・④主人受用の四つの]受用の中で、主人受用と受け
継ぐ受用とは、[輪廻からの解脱を目指す]全ての[比丘]たちにとって相応しいことである。
借金としての受用は
相応しくない。盗み取る受用(Theyyaparibhoga)は、話として存在せず[論外に]ほかならない。
そして戒めを具足する[有学の聖者]が、[ちょうど大幻術者の如く、人間存在という幻を生じさせる性質の基礎的
な要素の界によりて色(rūpa)を観察する、
又、無常・苦・無我・不浄である自己の身体と心や世間的な幸福など
に対して以前のような喜びや充実感あるいは願望がなくなり、不快感や倦怠感が生じる厭い嫌い(=厭逆)により
て]観察する受用は、これは、借金としての受用(iṇaparibhogo)とは正反対であるが故に、借金の無い受用で
あり、又、受け継ぐ受用(dāyajjaparibhoga)に含まれるにほかならない。 
[何故ならば]、又、実に戒めを有
する[比丘たち]は、この[止の修習・観の修習に励みながら見清浄・厭離智・智見清浄(註)などの]修行を具備
するが故に、有学[の聖者]であり、まさしく[煩悩の]滅尽に至るのである。
(※ 註:Dhp-U.p540~p542、「第
五節 89心と聖道作用」参考)
【参考】有学の聖者に到達するまでの修行項目が『清浄道論』に説く。
戒学
	
戒の解釈・十三頭陀支の解釈。
定学	
業処把持の解釈・十遍の解釈・不浄業処の解釈・随念業処の解釈・梵住の解釈・無色界の解釈・
禅定の解釈・食欲を抑える想の修習・神変の解釈・神通の解釈。
慧学
	蘊の解釈・処・要素(界)の解釈・能力(根)真理(諦)の解釈・縁起論・見清浄の解釈・度疑清浄の解釈・道非道
	智見清浄の解釈・行道智見清浄の解釈・智見清浄の解釈・智の修習の利益の解釈。※「厭離智」は、行道智見
	清浄・十観智の第六にある。
次に、[盗み取る受用・借金としての受用・受け継ぐ受用・主人受用という]これらの[四つの]受用の中で、[輪廻
から解脱している阿羅漢聖者の]主人受用は最上である。
それ故に、その[輪廻からの解脱を強く]望んでいる
比丘が、既に説かれた如きの[諸行を所縁とする観察から涅槃を所縁とする智見清浄による]観察をもって観察
して受用するならば、必需品(=資具)依止戒は完成されるべきである。
実にその如くに実践する[比丘]は、為すべきことを為す人である。[即ち、預流聖者・一来聖者・不還聖者・
阿羅漢聖者の各段階において苦諦・集諦・滅諦・道諦を悟り知る聖者である(註)]。
(※ 註:Dhp-U.p422、
註②参考)
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