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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 3/14
(Sīla-niddessa)
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清浄道論 Visuddhimagga 1-3
戒の解釈 3/14
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【第一の四つの法、①退分戒・②住分戒・③勝進分戒・④決択分戒】
四つの法の中の、第一の四つの法において、ここに、悪い戒め[の者]に親しく近ずいて
[善い]戒めを有する者に親しく習うことなく罪を犯すと雖も、無知のために[自分の]過ちを見ることがない。
[煩悩を追い求める]邪な考えが多く、[眼・耳・鼻・舌・身の]諸々の能力(=根)を守らない。
その如きの者には、実に[煩悩を退ける]退分[の戒め](hānabhāgiya-sīla)は生じない。
次に、ここに、戒めを受け保つことによりて自分の心に喜びがあるが、
[禅定の]業処(kammaṭṭhāna、註)を実践するという気持ちが生じない。
戒めを守ることのみに満足して、より上の[段階に]進んで励むということがない比丘には、
[輪廻からの解脱に向かって進む心が動かない]この住分戒(ṭhitibhāgiya-sīla)がある。
(※ 註:Dhp-U.p532、参考。)
次に、戒めを具足して、禅定のために[止の修習に]努力するその比丘には、
[特に禅定が勝れている]勝進分戒(visesabhāgiya-sīla)がある。
戒めを[守ること]だけに満足せず、[観の修習によりて無常・苦・無我・不浄である自己の身体と心や世間的な幸福などに
対して以前のような喜びや充実感あるいは願望が無くなり、
不快感や倦怠感が生じて厭い嫌うと観る]厭離[智](nibbidā- ñāṇa,註)に励むその比丘には、
[輪廻からの解脱を目指して涅槃を探し求めて追求して煩悩を殺しながら歩む]決択分[戒](nibbedhabhāgiya-sīla)がある。
(※ 註:Dhp-U.p542、「十観智の第六」参考。)
その如く、退分などによりて四種類となる。
【第二の四つの法、①比丘戒・②比丘尼戒・③未具足戒・④在家戒】
第二の四つの法において、比丘たちに対して知らしめられた学処(=戒条,sikkhāpada)において、
あるいはそれら比丘尼たちに対して制定されたところの[学処]において守るべき[戒め]は、
これは、比丘戒(bhikkhu-sīla)である。
[女性出家修行者の]比丘尼たちに対して知らしめられた学処(=戒条)において、
彼女ら[比丘尼たちのために]制定されたところの[学処]において守るべき[戒め]は、
これは、比丘尼戒(bhikkhuni-sīla)である。
沙弥・沙弥尼[・正学女]の十の戒めは、未具足戒(anupasampanna-sīla)である。
[男性信者の]優婆塞(upāsaka)・[女性信者の]優婆夷(upāsikāna)の[日常生活における]常なる戒めによる五つの戒条(=学処)、
あるいは更に付け加えた場合の]十の[戒条]、布薩支による[特別な]八つの[戒条]は、
これは在家の戒(gahaha-sla)であると、その如く、比丘などによりて四種類である。(※ 後記参考)
【第三の四つの法、①自然戒・②正行戒・③法性戒・④宿因戒】
第三の四つの法において、ウッタラ・クル州の人々は、[
本来]犯罪を犯すことがない。[それ故に]自然戒(pakati-sīla)である。
一族・地方・[仏教以外の]宗派がそれぞれに規定・実践する[戒め]は、正行戒(ācārasīla)である。
「アーナンダよ、[悟りを求めて修行している]菩薩(Bodhisatta)が母胎に入った後、
菩薩の母親は、男性たちに対して性欲を伴なう心を生じさせることがなかった。これは不変の本性である」と、
その如く説かれた菩薩の母の戒めは、[物事が有している不変の本性の]法性戒(dhammatāsīla)である。
次に、マハーカッサパ[長老]などの[心]清らかな人々の[戒め]、又、
[悟りを求めて修行している]菩薩のそれぞれの「生まれ」(jt)における戒めは、
[過去世において為した行為が原因による]宿因戒(pubba-hetuka-sīla)であると、その如く、自然戒などによりて四種類である。
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